柴野邦彦 プロモビス 水彩画 フライフィッシング
kunihiko shibano promobis Watercolor Fly fishing
A アングリング (angling)
フライフィッシングという釣りをやっていると、魚を釣るためにこういう方法で釣りをしているのか、こういう方法の釣り方を試したいために魚釣りをしているのか分からなくなることがある。
渓流で釣りをするなら、長い渓流竿か、アユ竿で細い道糸を竿先から垂直に垂らせばその先がドライであろうと、ニンフであろうと、金玉の付いたビーズヘッドだろうと、ドラッグなんてものが掛からなくていいに決まっている。
スラックがないから当りも瞬時にとれる。
ダブルハンドで海岸からウミアメを狙うと、サオを前へ振ったり、後ろへ振ったり、おまけに風でも吹けば自分の顔めがけて飛んでくるおおきな針をよけたり、と面倒くさい。
そんなものは鯉釣り用の投げ竿で、小さな錘と大きな毛鉤をつけて一気に飛ばし、スピニングリールの高速回転で引いてきたほうが手返しがいい。
フライフィッシングの釣法がもっとも適しているのは、チョークストリームの川で水に浮かせる毛鉤を使う時で、それ用に考えられた釣法であり、道具なのだ。
にもかかわらず、フライフィシングの好きなわれわれは、あらゆる不都合を考慮に入れてもなお、あらゆる状況やあらゆる魚種を相手にこのやり方を押し通そうとする。
バショウカジキをフライで釣ったり、砂底のハゼをシンキングラインで狙ったりする。
フライフィッシングの愛好家はこの釣り方よりももっと釣れるかもしれない釣り方があるのに、そして心の中ではよりたくさんの魚を釣りたいと思っているのに、この方法でなんとかして釣りたいのだ。
なぜか?
つまりはこの釣り方が好きなのだ。フライラインで空中に美しい弧を描き、単純な糸巻きで魚とやりとりをすることが。
釣人でない、一般的なアメリカ人と話しをしていて、フライフィッシングが好きだを言ったら、あの釣りは今でも竿を何度もムチのようにふらないと糸がでていかないのか、と訊かれた。
つまりあの道具はその原始的な段階から進歩していないのか、という質問だ。
そう、進歩していないのだ。そして、おそらく進歩したくないのだろう。
釣り場に立つと、あなたは考える。
フローティング・ラインにするか、シンキングで釣ろうか。ドライ・フライかウエットか、ニンフかストリーマーかと迷う。
そして、本当はドライ・フライで釣りたかったのにニンフで釣って、それで釣れなかった時にはやっぱりあっちが良かったのだ、と悔しがる。
迷うことはないのだ。
テレビや雑誌で活躍するプロの釣師なら、どんなことをしてでも魚の顔を見ない訳にはいかないだろうが、われわれシロウトにはそんなことは関係ない。
こう考えたらどうだろう。
あらゆる、さまざまな釣りの中でわたしはこの釣り方が好きで、フライフィッシングを選んだ。
ほかにもっと具合のいい釣り方があるかも知れないのに。
それならその釣り方を楽しめばいい。
毛鉤が水面に浮いて流れてゆくのを見るといい気持ちになるなら、その釣り方に迷う必要はない。水の中に毛鉤を泳がせて、めったにないモンスターがそれを追っているに違いないと想像すると、世の中の雑事を忘れられるというなら、漁獲高など気にすることはない。
遊漁とはあくまで自分本位のもので、何事も思い通りにならない世の中にあって、自分の精神を解放してくれるものだ。
釣りをしている時くらいは、俗世の規律や、他人の眼など無視して自分に酔ってやろうではないか。