J 時間切れ
暗くなるまでにスレッからしのチビヤマメを7X、20番のフライで狙う。
こいつは神経質で釣り人はバカにされるばかり。
魚はよほど教育が行き届いているようで、水面を流れるフライをすぐ見破ってしまう。
いい加減諦めればいいものを、一尾でもよけいに釣りたいという乞食根性がしつこくサオを振らせる。 気が付けば尾根の向こうに陽が落ちて、杉木立の先に紫色のたそがれが降りかかった。
ドロヤナギの根元で最初の大きなやつが虫を呑み込む音がした。
あれは7Xでは太刀打ちできない。
チペットを換え、フライをイブニング用の白い大きなものにしなければ。
空に白みが残っているからライトを点けなくてもなんとかなる。
と、思っていたが、近視に乱視に老眼では少しの光量の変化でも作業には重大な支障をもたらす。
ロッドを股の間に挟み、チペットをつまんでフライを切り取って胸のパッチに刺し、細いチペット切って本体のほうは口にくわえ、切ったほうはまるめて袋に入れポケットにしまい、新しい太いチペットをだしてリーダーに結び、それをまた口にくわえてフライボックスをポケットからだし、イブニング用のフライを選び出し、やっと震える指と見えない目でフライのアイに糸を通す。
両手の指をアクロバチックに動かして糸を結ぶ。
その間にもヤナギの根元ではライズの音が聞こえるから、気がせいてなかなか事は順調に運ばない。
最後に余った糸を切る時に、間違えて、本体のほうを切ってしまった。
それでまた最初からやり直しだ。やっと用意が整って立ち上がった時には、木蔭のヤブは色を失って大きな黒い塊になり、淵尻で別の大物が水輪をつくる。
釣人は完全に出遅れている。
最初のキャストはヤナギの根元を狙った。
フォルスキャストを二回やって、シュート。
これは短すぎて、フライは早い流れの真ん中に落ち、あっと言う間に流れ去った。
少しラインを引きだして、二度目のキャスト。バックからフォワードへ移るところで、ロッドに強烈な衝撃。
見ると後ろのハンノキ枝が揺れている。
ラインを引っ張ると枝がおじぎをするので、手を延ばせばフライは回収できそうだ。
ロッドを置いて、ラインを引きながら枝に近寄る。
片手でラインを引いて、もう片方で枝に触ろうとするのだが、足元が悪くて届かない。
何回かやってみて、諦めた。
両手でラインをめちゃくちゃに引っ張ってやっとリーダーの先が切れた。
それでまたさっきの作業を一からやり直し。
今度はもう暗いのでライトを点ける。
光の環の中では仕事はさらに困難を極め、時間がかかる。
ライズの音はあちこちで聞こえ、大物のマスたちが大宴会の最中だ。
草の中にうずくまって耳をふさぎ、手芸教室の初心者になったように釣りとはなんの関係もない作業に集中する。
そうして時間はどんどん過ぎる。
もう一度フライを木の枝に掛けた時にはもう、一生釣りなどやるものか、と思った。
それでも気を取り直し、指の運動と視力検査を繰り返した。
そうしてフライを結び終え、見回すとあたりには静寂が漂っている。
水面は静かで、音もせずただ黒い水が流れている。マスたちは邪魔者の入らなかった宴会でたらふく食べ、もうベットへ向かったに違いない。
これを時間切れという。