K Keep (魚を殺すこと)
最近は釣った魚をキープするかどうかで、迷うことはあまりない。残念ながら、たいていは放して帰ってくる。バーブはつぶしてあるから、魚に手を触れずにフックだけをつまんで外せるようになった。親指と人差し指をペンチのように使うのがコツだが、慣れればそんなに難しいことではない。魚を水へ戻すにはうまく鈎を外す技術が重要だと思う。魚を引っ掛ける技術と同じくらいに重要だと思うが、それを解説する技術書はあまり見たことがない。釣りのうまい人は鈎を外すのも上手だ。管理釣場の常連たちは専用の鈎を外す道具を持っていて、手際よく魚を水に戻している。あれはもっと普及してもいいような気がする。
魚に鈎を呑まれてしまうことがある。集中力が切れていい加減な釣りをしている時だ。一人前の釣師としては、恥ずかしいが、仕方がない。その時はチペットを切ってやる。何日かすると、魚は自分で鈎を外す、とアメリカの雑誌に書いてあったからだ。本当にそうなるのかは分からないが、とりあえずお説を信じて、魚のご健康をお祈りしつつ放してやる。(この原稿を書いたずっと後で、中央水産研究所の坪井潤一先生の講演を聞いたら、先生は実際に実験して、魚の胃の中の針は溶けるということを実証していた)しかし、いくらお祈りをしたところで、頭の中にその魚の行く末が心配になることがある。狩りでいえば半矢の状態で、傷をつけたものは殺してやらなければいけない。お祈りの効果が信じられない時、今夜か明日に自分で料理の時間が持てそうな時、鈎を呑んだ魚は、オレの未熟のせいだと反省しつつ、頭を叩いてやる。慈悲の一撃というやつだ。
これを〈魚をKeepする〉と言う。そして、これが本来の釣りの姿なのだ。目くじらをたてて非難されるような行為でもなんでもない。魚を水に戻してやることが、釣人の模範となる美しい行為と思われそうだが、よく考えてみれば、それは単なる一人よがりでしかない。口の中に鈎を突き刺し、水の中を引きずり回し、さんざん痛めつけた後で、オマエはいいファイトをした、などと言ったところで、褒められることは何もない。向こうは命がけで、こちらは何のリスクもないからだ。自分と同じ一個の生命を相手にしているのだから、釣ったら、殺して、食べて、自分の肉体の一部にしてやる。それでこそ、釣りに正当性ができるのではないだろうか。その覚悟がなければ、緑の芝生の上で、球ころがしでもしているほうが罪がない。
キャッチ・アンド・リリースをしたからといって、この行為の免罪符にはなり得ない。それは釣人同志の共同の利益のための便宜的方法で、優しさや精神の高貴さなどとは何の関係もない。と、考えつつ、小生も釣った魚を放し、次に来る釣人に恩恵を与え、前の釣人のお情けを頂いて魚を釣っている。釣人が多くて川に魚が少ないから仕方がない、情けない、と思いつつそうした魚釣りを続けているが、世の中にはもっと情けないのに我慢しなければならないことが多いから、マ、いいか。
理想的には≪リバーランズ・スルー・イット≫のお父さんのように、あるいはスペインの川だか、二つの心臓の川だったかのヘミングウェイのように、夕食用に何尾かの鱒を釣ったら、木蔭で本を読んでいたいものだ。そういう心境になるにはあと何年かかるのやら。