B ブユ
(和名はブユ、関東ではブヨ、関西ではブトと言うそうだ)
背の高いフキの間に坐っていると、驚くほどの数の小さな虫が襲ってきた。
あわてて背中のポケットから防虫スプレーを出し、肌の出ているところへ、もう一度吹きかけた。
オデコや顔には手のひらに吹き溜めたのを塗りたくる。
これで刺してはこないと思うのだが、それでも顔のまわりをブンブン飛び回られると、心中穏やかではない。飛び回っているやつを目がけて、シューとやると墜落するやつもいて、一瞬静かになるが、もちろん無駄な努力であることに変わりはない。
ライズはまだ始まらない。
夏至に近い季節だから、柳の梢にはまだ昼間の残りが引っ掛かっている。大きな奴が潜んでいるはずのプールのエグレも沈黙したまま、同じ水が同じように流れている。
この平和な地球を占領し、脅かしているのは、ただひたすら、無数の小さな虫、ブヨだ。
フキの間から立ち上がると、顔のまわりは雲が薄くなる。
しばらく立っていても、柳の根元には何の変化も起きないので、また坐る。
ふたたび、ブヨの大群が攻撃を仕掛けてくる。
何度かこれを繰り返した。大きな奴を釣ろうと思ったら、このくらいのことに負けてはいられない。
不思議なことに、モンカゲロウが一つ二つ水面から飛び立つようになると、ブヨがいなくなった。理由はよく分からない。ブヨはいなくなったが、その夕方大きな奴も出てこなかった。
誰かが釣り上げてしまったのだろうか。
釣り人にとってブヨは避けて通れない。
その日の夜、宿へ帰って調べてみた。
文献を読むだけでも恐ろしい相手だ。
なにしろ彼らは水中で生まれ、水中で育ち、水辺で釣り人の血を吸おうと待ち構える。
蚊やアブと同じように吸血をするのはメスのみだそうだが、それだけでもすでに十分すぎるほど、十分だ。一般的な蚊用のスプレーは効果が薄く、ブユ専門のものがいい、と書いてあった。
それからハッカ油の水溶液もいいそうだ。それで思いだした。
北海道の友人で森林組合に勤めているのが、北見産のハッカ油スプレーを差し入れてくれたことがあった。それでその時に一緒に行った仲間はみんなハッカの匂いをさせていた。
あれは良かったのだ。文献には蚊取線香もいいと書いてある。
これも同じ森林組合の友人がくれたことがあった。
それは森林組合御用達でふつうの香取線香の二倍の太さがあり、ケースを腰にぶらさげられるようになっていた。あれも良かったのだ。
今になって、今後は森林組合の言うことは信用しようと、覚悟を決めた。
その翌日の夜、尻がかゆい。触ってみると、小山ができて固くなっている。
ブヨに噛まれたせいだ。しかし、なんで尻に。
川辺で人魚に出会ってズボンを脱いだ覚えもない。
考えてみたら、釣りに見放されて、近くの野天風呂へ行き、岩上で、川を見ながら、一人静かに前日の釣りを反省したときにやられたらしい。この釣りの名残りは数日続いた。