F Fly Casting フライ・キャスティング
糸の先に結んだフライを水の上に投げる技術。
フライ・フィッシングが文字通りフライで魚を釣る方法、というのであれば、この技術は特別必要というわけではない。
アユのドブ釣りのように、毛鈎を結んだ糸に錘をつけて、それを長いロッドの先から垂らし、水中を上下させれば、魚は食いついてくる。この仕掛けは魚が毛鈎にぶつかるのが判るほど、繊細、敏感で、効率がいい。
ところが、現代のフライ・フィッシングでは、なにがなんでもキャスティングという動作が入らないと格好がつかないのだ。
小生の友人に浜辺から長いサオで、重い錘を100メートルも150メートルも飛ばしてキスやカレイを釣るのが好きなのがいる。
小魚を釣るのなら、そんな面倒なことをしなくても、魚のいるところまでボートで出て行ったほうが効率がいいだろう、と訊いたら、それでは駄目なんだそうだ。
何が何でも長いサオを振りまわして、円月殺法だの、つばめ返しだのと言いながら、錘をブッ飛ばすところにその釣りの面白さがあるんだそうだ。
そこで、フライ・フィッシングだが、これもポイントまで届く長いロッドを使ったのでは駄目で、根性のない糸の先についたフライをなんとか魚のいるところへ投げる必要があるらしい。
フライを狙ったところへ、望む形でキャストするというこの運動は、ゴルフや、カーリングのようにスキルを磨き、競う面白さがある。
この運動は、実は、魚釣りとはなんの関係もない。
フライ・キャスティングは魚の居ないところでも練習できるし、多くは芝生の上で行われる。考えてみれば、かなりの練習時間が必要なこの運動は、どうしても水面を必要とする投げ方以外では、ロッドを振っている時間は水の中よりも、地上でのほうがずっと多いだろう。
つまり、フライ・フィッシングにおいては、魚を引っ掛けるという興味と、フライをうまく投げるという興味の二つの異質なものが複合している。この二つはどちらかを欠いても、それぞれ独立し得るが、魅力は半減する。
現代生活において、フライ・フィッシングが単なる魚とりではない、魅力あるスポーツとなっているのはこのキャスティングという技があるからに違いない。
そして、フライ・フィッシングは、自然の中にあって自然を相手とすることで、単なるスポーツに留まることなく、現代人が日常の中で忘れていて、川へいくことで目覚めてくる根源的な欲求を満たす行為となった。
谷が甘い花の香りで満たされる春の夕方、カゲロウの集団がヤナギの梢に婚礼の儀式を用意するころ、熟練した釣り人の繰り出す、気負いのないラインの美しい放物線は見ている者の心を震わせるものがある。
それは、ほんの一時でも世の中のシガラミから解き放たれた釣り人の心を象徴するように、黄金色の光の中へ飛び出していく。