A Angler ― アングラー
英語のAngler〈釣り人〉という言葉はAngling〈魚釣り〉から来ている。
〈魚釣り〉を表す英語にはAngling とFishingがある。
Anglingのほうは辞書によっては古語と書いてある。
語源はAngleで〈角〉とか、〈隅〉あるいは〈角度〉の意味から、針を曲げた釣り鈎が連想され、その鈎を使う行為として魚釣りが意味づけされた、と想像できる。
FishingのほうはもちろんFish〈魚〉が語源だから、魚を獲る行為で、網だろうとヤスだろうと鈎だろうと、手段を選ばない。
大きな船で底引き網を引く漁業ももちろんFishingとなる。
だからなんとなく、Anglingは魚釣り、Fishingは魚獲り、というニュアンスが感じられるが、趣味の魚釣りにFishingを使ってはいけないか、というと、そんなことは全然なくて、人間の大雑把な性格と、最大公約数が市場を占領する法則に従って、どっちを使っても誰も文句をいう筋合いのものではない。
日本語でみんなが重複を〈じゅうふく〉と言うので、〈ちょうふく〉と言わなくても怒られないのと同じである。
今では国語辞典にもそう書いてあるから、これなど頭の固い学者が民衆の力に負けた好例である。
Anglingが鈎で魚を引っ掛ける行為だとすれば、しかもそれがキャッチ&リリースなどと言って、生存のための食料確保の手段でもないとすれば、われわれAnglerはパチンコ玉の代わりに一個の生命をもて遊ぶ、自分勝手で残酷な人種だと思うのだが、どうだろう?
癌を患った小生の友人の一人が、川に行きたくて仕方がない、と言った。
彼は少し快方へ向かっていて、あの湿った森の匂いや、岩の間を流れるせせらぎの音の中で、カゲロウが婚礼の飛行に夕方の光の中を駆け上がってゆく光景を見ていたい、と言った。
それからしばらくして、彼に会うと、すっかり元気になった様子で、魚釣りに行ってきたと嬉しそうな顔をした。
それは渓流の管理釣場だったが、大きいのや小さいのや、たくさんの魚を釣って幸福な一日を過ごしたそうだ。
お蔭で体調もすっかり良くなったという。
残念ながら、それから半年して、癌は再発し、彼は亡くなった。
あの時、彼は釣りをして、一瞬の生きる希望をとりもどしたのだ。
自分の中に太古の時代から受け継がれている、生きる原点となる小さな残り火に、口をすぼめて息を吹きかけ、炎を掻きたてて、魚を釣って、釣って、また魚を釣って、自分の生命を確認し、自信を得たのだろう。
現代社会の中では、多くの人が、不本意で抑圧された生活を強いられ、静かな絶望の中でその日、その日を暮している。
週末に川に向かうということは、人生をやっていく上での一筋の光のようなものだ。身体の中に刻み込まれている、生きるための正当な行為としての狩猟や釣りの本能の発揮は,思考や論理を越えて精神を解放させる。
ゴキブリを見ると噴霧器を持って,奇声を上げながら部屋中を駆け回るカミさんたちの生き生きとした表情をみればそれは明らかだ。
現代の釣りは肉体に対しての食料とはならないとしても、精神の解放のための燃料としては、同じように重要だ。
複雑になりすぎた現代の社会組織はつねに弱点を持ち、それはつねに矛盾や、不公平を抱える。
国は間違いを犯すし、組織は存続への執念から個を切り捨てる。
そんな中で、われわれAnglerは恵まれているのかもしれない。
そうした状況から自分自身を護るために、太古から受け継いだ個を護る能力を自分の血の流れの中に見出すことができるからなのだ。
この流れを自分の中に見出すことで、われわれは何とかバランスを保っている。
そうして、Anglerは週末の一日、義理もしがらみもこちら岸に投げ捨てて、川を渡って行くのである。