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D  ダン(Dun)

 

 カゲロウの羽根の透き通ってないやつのこと。

大人になる前の段階で亜成虫と言うんだそうだ。

成虫になると羽根が透明で、スピナーと呼ばれる。

最後の一枚の衣装を脱いでやっと本領発揮の踊り子嬢と思えばいいだろう。

食べておいしそうなのは、若いほうで、ジューシーな感じがする。

川が一面黄色くなるほどの量の巨大なダンをカゴに集め、焚火でいぶして食べる、ニューギニアだかアマゾンの人たちをテレビで見たことがあるが、人間が食べてもうまいのだから、鱒にとってごちそうなのは容易に想像できる。

鱒はこの虫が水面を流れだすと他のものには見向きもしない。
スキー場の中の小さな流れでカゲロウの成人式に立ち会ったことがある。

水の中にいた芋虫だかオケラだかハンミョウみたいな恰好をしていたやつが、ある日突然水面へ駆け上がり、美しく変身して、空気の中へ飛び出す瞬間だった。

それは水面で一瞬の間に花が開くように見える。あまりの早業で、ポンと音が聞こえるような錯覚さえする。実際には、その瞬間に幼虫の背中が割れ、水中の酸素を取り入れる器官が、空中の酸素を呼吸するものに入れ替わり、羽根とそれを動かす筋肉が動きだす、という驚くべき変化が起こっている。
 水面の黄色の花は次から次へと数をましていき、それから一匹ずつ、ためらいがちに空中への冒険に旅立ってゆく。すると淵全体が沸騰しはじめ、大人や子供や老人のイワナが小さな淵のあちこちに現れた。そして狂ったようにそのヨットに襲いかかる。

一体、この小さな溜まりのどこにこれだけの魚が隠れていたのだろう。魚たちはすぐそばに釣り人がいることなどおかまいなしで、大胆に水面に全身をだして飛びついたり、流れる虫を追って腹を擦るような浅瀬にまで走りまわる。
簡単に一尾釣ったけれど、あとは食物連鎖の明白な証明を眺めていた。

こんなところへ毛鈎を投げ込むのは卑怯な気がしたからだ。
 解禁直後の東北で同じ経験をしたことがある。風のある寒い日で、水から上げるとラインが凍った。魚はぜんぜん釣れなくて、雲の低い谷の底を、いつ止めようかと思いながら歩いていた。

午後からは雪が降り出して、吹雪になった。

小さな堰堤があって、そこで終わりにすることにした。

ところが、水が片寄って落ちている暗い水面に白い飛沫が上がったのだ。

雪の隙間を通して良くみると、雪片に混じって白い花が水面に現れ、流れている。それを目がけて、次の飛沫が上がり、花が消えた。

その場所で、尺を越すイワナを三つ釣った。

それから、突然恐ろしくなった。

こんなことはあり得ない、これ以上続ければ、祟りがあるに違いないと、不安にかられサオを畳んだ。

不安から解放されたのは、宿へ帰って、その川には温泉が湧いていることを聞いてからだった。
 釣り人同志でこうした話をするとき、ふつうは「亜成虫が出てねー」とかラテン語名の「サブイマゴがハッチして・・・」などとは言わない。

口は怠け者だから、短く「ダンが流れてさー」などと言う。

栃木の里川でイブニングの釣りをして、暗くなって土手に上がると、田んぼの端の掘立小屋に寂しげなネオンが点いてチカチカしていた。横を通ると、背広を着たお兄さんが出てきて、「ダンな、いい娘がいますよ」と言った。
これは、小生がダンになって、食われるほうの話だ。

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