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E  ecology

エコロジー。

生態学。

この言葉が新聞に登場したのは、もうずいぶん前だ。

釣りに直接関係のある言葉ではないのだが、蛍光灯を点けなければ仕事のできない事務所にいて、頭の中に朝日の当たった新緑の河原が見え、光の滴を飛ばす早瀬の音が聞こえるような、貧しい勤め人である釣り人にとって、この言葉はすばらしい響きを持っていた。

都会での生活と週末の川での殺生人体験とのギャップとを論じてくれているように思えたのだ。

人間という生物にとって、どちらが住みやすいかというのではなく、居場所としてどちらが気持ちがいいのか、どちらの環境の中での人間のほうが本当の姿なのかという疑問を問う学問ではないかと思えた。

レイチェル・カールソンの『沈黙の春』や、ヘンリー・D・ソローの『森の生活―ウォールデン』はそうしたぼくたち若者のバイブルとなった。人類が誕生してから、人間の肉体は狩猟動物として進化してきたのに、農業の始まった、たった五千年という短い間に生活形態は全く変化してしまい、本当は原野を駆け回っているはずの肉体は狭いオフィスの中でただ椅子に座って議論を戦わせ、精神的ストレスを蓄積するだけになってしまった。

そうして人間は肉体的にも精神的にも自由を失い、不幸になってしまった、という説は次の週も川へ向かうための恰好の口実となった。
エコロジーという言葉はバブル経済への反動であったのかもしれないし、あるいはバブル経済の陰りが次の商売ネタさがしの結果、引っかけたものであったのかもしれない。

この言葉はやがて経済活動の宣伝文のなかにまで使われるようになった。

エコロジーの示唆するものとは違うにもかかわらず、人間生活にとって魅力的なこの言葉をうまく利用して金儲けをしようという魂胆があちこちに透けて見えた。

そして、言葉はさらに一人歩きをし、エコなどという和製英語が出現するにいたって、もう手垢にまみれ、輝きを失しなった。

電気自動車はエコで、エコカーと言う場合、おおもとでその電気をつくるためにどれだけの無駄と、リスクを負っているかは考えてはいけないのだ。

それは事故が起きた時の費用を計算に入れずに原発での電気は安いというのと同じくらい、明白なダマシの手口に見える。

今では広告の中にエコという言葉がでてきたら、まず、疑ってかかったほうがいいだろう。
そう、ぼくたち釣り人は、川へ行くには車に乗るし、釣り情報を手に入れるためにはインターネットを使うし、寒くなればたくさんのカモ殺して作った上着を着て出かける。

まったくエコな人種ではない。

けれども、あらゆる矛盾を抱えながら、ぼくたちがサオを担いで川に向かうのは、一日の自分という人間を取り戻すためのささやかな抵抗なのではないだろうか。
われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか―――ゴーギャンの絵の中に書かれた言葉。

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